せんくつにっき

思うこと、感想、とかとか

220124日記 肩こり

・月曜日終了。どこまで本当かは知らないけども、外国に肩こりが存在しないのはそもそも肩こりで痛いのは肩ではないから、「肩こり」と言っても通じないだけだと聞いたことがある。なるほど確かに今凝っているのは肩じゃないように思うが、じゃあなんで「肩こり」って名付けられたんだよと根本的なところが気になってくる。

 

・どうだろう、実は「肩こり」の実際の患部というのは人によって微妙に違っていて、最初に「肩こり」と言い始めた声のデカい人はホントに肩が凝っていたんじゃないだろうか。周りの、別に凝ってるのは肩ではないけどその周辺であることには間違いない派の人はそれに流されて「ちょっと違うけどな……」と思いながらと肩こりと呼び始めた説。私と誰かの「赤」が同じ色かどうかわからないのと同じように、誰かと私の肩こりが同じとは限らないのだ。まぁ、色と違って部分の話なのでちゃんと話せば伝わるはずですが……。なお、私は肩より少し下の高さの背骨付近が凝ることを「肩こり」と呼んでます。解消のために動かすと首筋付近にも凝りが広がる。

 

・今例に挙げた色の話みたいなの(クオリア)については「話してもわからない」ことではあるけども、逆にそれ以外であれば「話せばわかる」はずだと私はふんわり思っていて、だから議論を軽視する風潮にはイマイチ乗りきれない。話し合いによってチマチマ意識改善を働きかけるよりもあらゆる面で優れてる手法があることは否定しないけど、だからといって議論を「意味がない」とまで切り捨てることはないのではないかと。最終的に意見の違いは解消されないかもしれないけど、同じ言葉で同じ論理体系を使っているのであれば、差異の理由は結局定義やそれこそクオリアの「話してもわからない」部分に帰結するはずで、であれば、相手は感覚が違うだけで頭が悪いわけでも盲目になっているわけでもないと、そこを理解出来れば相手を過度に無能化した無駄な対立は起きずに済むのではないだろうか。理想論でしかないですが。

 

・ついでに多少ポリティカル的にセンシティブなワードについても触れようかと思ったが、止めときましょう。まだ不定形で不安定なあれにわざわざ触りにいく必要もない。エビデンスすらなく、「大体あの辺のこんな感じのものをこう名付けます」みたいなの、舌の根も乾かぬうちにってやつだが「論ずるに値しない」と思いますので。