せんくつにっき

思うこと、感想、とかとか

210430日記 区切り

・金曜日終了……は、してない。実は。どころか開始すらしておらず、現在時刻は前日木曜日、4/29の23:47だ。書き終わるころには日付も越えてるだろうか。なにあろう、またも予約投稿を活用しており、完全に調子にのったなコイツという感じ。

 

・『日記』っつってんのになんだって前日のうちに書いとくみたいな卑怯(?)なやり方をしているかというと、まず、明日のいつも日記を書いてる時間帯は、おそらくはちょっと完全に手が離せない状態であろうこと、もし離せてもその時間は短く、いつも日記に掛けてるほどは取れないであろうこと。そして、今日、金剛いろはの最後の配信も終わり、だからここ一週間ちょっとのあれこれの感想を書こうとしてるのだけど、そんな短い時間で追い立てられるようになんか書きたくないということ、この感情は早めに書いておかないといけないということ。つまりはおおむねそういう話で、ここから下にはは素面の人に見せるにはお恥ずかしい、陶酔的文章が流れる。なので、正直あんまり他人に見てほしくなさはあるけど、まあ今更だ。文章の置き場をネットに選んだんだからね。

 

・じゃあ、供養だ。いや彼女たちじゃなく。いくら悪ぶりがちな私でも、そこのラインは見えてるし、まかり間違っても踏み越えない。供養の対象は、ここ一週間ちょっとの間にメモ帳に書いた感情文章(ポエムもどき)だ。まかり間違うな。今はまだエモに浸ってるから見てられるけど、たぶんメモ帳に置いたまま日常的に目にしていると、そのうちうんざりしてしまう。それはよくない、あまりによくない。正直、今でも転記するうちに書き直したくなるのだけど、そこはぐっと我慢して。ただし、あくまで感情のままに書いたメモ帳のやつと、多少落ち着いた『今』書いたのは分けときたいので(恥ずかしい以上に、後から見返すときにもそこは分けといたほうがね)、メモ帳から引っ張ってきたやつは引用の形を取る。これも初めて使うな……。

純粋によかったことだけど、私がどんなに沈んでようがTLは平常運転だ

悲しくて寂しくて胸が締め付けられるようだけど、後悔はない

 ・一発目。たぶん最初に書いたやつ。というか、あの『お知らせ』を読んだときの気持ちは当時の日記にあるから、これはその日記を書いたそのあとの感情だ。まず、私がメインで使っているアカウント(@senkutsu2 じゃないやつ)でフォローしているうち、Vtuber関連は非常に少ない。当人たちと、ごく一部の彼女たちを応援する絵描きさんだけだ。全フォロー数の一割程度にも満たないんじゃないだろうか。

・だから、あの『お知らせ』についてのことも、TLに流れる割合としてはそんなもんだった。私がこんなに心をかき乱されているのに、こんなに心を支配されているのに、TLで反応している人は非常に少ない。寂しいことのようだけど、逆に冷静になれて良かったなと私はあの時思ったし、今も思ってる。自分の内で感情が反響し膨らむことすら許容しがたいのに、不特定多数の他人の感情でそうなるのは、私は出来るだけ避けたいのだ。だから、”そう”したことは、お前の悩みなんて些細なことだと見せつけられてるようで、彼女たちの卒業なんて世間にとっては取るに足らないことだと言われてるようで、寂しくて悲しかったけど、後悔はない。そんなものはただのタチの悪い妄想に過ぎないとわかってるから。

 

やっぱり、そうなんだろうなとは思っていたけど

彼女たちがいなくなることは、当然悲しくて、だけどそれと変わらないくらいに、

残って寂しさを抱える彼女たちを想って、また、また悲しくなる

 ・一夜か二夜か、あるいは入れ替わり配信を見たときか。一旦落ち着いて、また落ち込んだときだったと思う。そのぐらいのタイミングで書いた文章だ。私のような視聴者にとって、彼女たちの配信は当然悲しい。どこかで元気にやっていることを想い祈ることはできるけど、それ以上は決してできず、新しい声が届くことがもうないという事実が悲しくなくてなんなのだ。ただ、今回Vtuberを続けることを選んだ子たちは、私たちとまた違う悲しさと寂しさを抱えることになるのだ。それを想うと、また悲しくなる。

 

どこかで笑顔で、も、元気でいてね、も、なにもかも、あなたこそと言いたい

 ・八重沢なとりの配信を見たあとの感想だけど、結局、最後の配信をした全員に対して言えることだった。元気でね、笑顔でね、幸せにねなんてことを言うのだ、3人とも。それは此方のセリフだというのに。もちろん、これは別れの言葉の常套句で、だけどこれを言えず、これを言わずに訪れる別れだってあるのだ。たったこれだけの言葉を伝え、伝えられただけでも、この別れは恵まれている。ああそうだ、私もそうコメントしたぞ。忘れてないだろうな。感謝とあわせて伝えたのだ。ちゃんと。目に留まったかなんかわからないけど。

 

ああこれはダメだ、後からくるやつだ

配信頻度が少なかろうが、ずっとどこかで意識してたわけで、それはもう日常になってたのだ

・北上双葉の配信を見たあとの感想だ。今回活動を辞める彼女たちのなかで、北上双葉が一番の推しだった。配信はもちろん楽しみだったし、配信がない日も、『.live』全体の明日の配信スケジュールが投稿されるたびに、(不定期だったこともあり)彼女の名前を探していて、つまりは日常の一部だったのだ。だからたぶん、卒業配信そのものも悲しかったけど、これからも続く日常から欠けたものを見つけるたび、また悲しみに刺されるのだろうなと、そういう話。

 

幸せになってほしいって願いが、祈りが、私たちに残ったものだ

時間は二度と共有できないけれど、同じ祈りを共有できていると気づけたことが、

ひとつ気づけたことである

・「気づけたこと」が重なってんな。まあいい。金剛いろはの配信を見たあとの、つまりは3人の卒業配信を見届けたあとの感想だ。上にも書いたが、卒業配信をした3人が3人とも、こちらの幸せを祈ってくれていた。そして、それは視聴者側のファンも同じで。書いているように、もう二度と時間を共有することはないのだろうけど、しかし、『これから』の祈りを同じくすることはできるんだと、そう気づいた。

 

伝わることはないけれど。

たぶん、きっと、私が貴方達の新しい声を聴くことはもうないと思うから。

だから、ありがとうと、そして、どこかで幸せになってください。

 ・ぶっちゃけこれは、『お知らせ』を見たその日の夜に書いたやつだ。「新しい声を聴くことはもうないと思う」て。そっからのやつは全部見たろお前。要するに今日本日という「本当の最後」を想像して(妄想して、とも言う)書いたやつだけど、今の心情とさほど変わりはないし、まあいいかなと。正直転生の匂わせなんかだあったらこれは書かなかったかな。あの夜、それをどこかで望んでなかったと言えば嘘になる。

 

・メモ帳からの引用終わり。このままの勢いで、もう一度彼女たちへの別れの言葉をここに書きたくなるけど、それに意味はない。こんなところよりももっとそれをする意義がある場所はあって、そして私はそこでそれをしているし、意味がないことだってすぐ上で書いている。

 

・私はこれからもVtuberを見る。推しが完全にいなくなるまでか、私が飽きてしまうまでか、それは未来のことだからわからないけれど、明日は見るし、きっと明後日も見ている。半月くらいはそうしながら卒業した彼女たちのことを思い出しては感傷に浸り、二月もすればその頻度も減るだろうか。節目の度には思い出すと思う。あ、どうだろう、金剛いろはと北上双葉に関してはプレイリストにオリソンを入れているし、それを聴くたびに思い出してしまうかも。

 

・そうやって、たまに彼女たちの卒業を懐かしみ、意義があったよなんて振り返り、また彼女たちの幸せを改めて願うような、そんな未来の瞬間が、できるだけ長く続けばいいと思う。

 

・とっくに日を跨ぎ、もう金曜日の日記と言い張れちゃうな。現在時刻はちょうど午前1時。おおむね書きあがるのに1時間ちょっとだ。彼女たちが活動していた時間よりもずっとずっと短いけれど、区切りと言うのはそういうものだ。明日も仕事だし、寝ます。おやすみ。