せんくつにっき

思うこと、感想、とかとか

201126日記 いつかの書き殴り

・木曜日終了。古いパソコンを整理していたら、書きかけの短編に混じって、物語ではない文章が発掘された。供養ということで日記に投下。こういうのはありがたいね。ここのところネタがないからね。仕事も妙に忙しいし。

 

 天網恢々疎にして漏らさず……そんな言葉はあるけれど、残念ながら天網なんて機能を持つものはそもそもないわけで。信じる者は救われる……はとても良い言葉に見えるけれど。公平世界仮説……と言い換えてしまえば途端に信じる人が愚かに見えるだろう。勧善懲悪……は常ならず、それを見る人の願望に過ぎない。

 人生は、世界はなるようにしかならない。報われた、は結果論であり、現実が自ずからそこに寄っていくことはない。人が報われるべく動いた結果、なるようにしてそのようになることもあるし、ならないこともある。意思は行動をどうにか変えられるぐらいで、直接に結果を動かす力はない。

 悪があって、懲らしめられた。現実において稀であるけど、同時に常でもある。結果を見たとき、懲らしめられた側が悪だと認められるからだ。懲らしめられたのだから、悪でなければならないとも。

 おかしな話だ。世界はそんな単純じゃないと誰もが知ってるはずなのに。それでもまだ、そうあれかしとばかりに結果だけが悪を決める。理性と知性、法治によって不条理は少なくなったはずだけど、しかし集団さえあれば容易く、そして強固さを増して甦る。

 あの人は悪い人だけど、断罪をするのは私じゃない。そんな簡単なことが、いまだに受け入れられることはない。世界が繋がり、他人事が眼前に晒され、知らないけど同じ人間がどうやら苦しい想いを、あるいは良い目を見ているらしいと、そんなことで人が奮起する。何かしなければ、と。

 繋げていなければ、社会はもはや成り立たない。生活も、娯楽もだ。だから、変えられるのは意識だけだ。

 関係を見つけようとしない、憶測と事実を取り違えない、数は正しさを担保しない。人としての賢明さを保つために意識できることは山ほどあり、それを尽くしてようやく行動を変えられるかというところだ。

 知ったことではないと、動物のごとき反射でもって人間の権利を振り、貪り、叩くのは、さぞ心が楽だろう。動物なのだから、動物的行動で心が疲弊することはない。