せんくつにっき

思うこと、感想、とかとか

201028日記 半可通

・まもなく10月も終わりだ。月末が鬼のような速度で来るのもそろそろ慣れ……ない! まったく慣れない! 月末が来るたびに思ってるし、いちいち日記にも書いてるけど、慣れる気配は見えない!

 

・なまじ日記や感想記事なんかを書いてるせいで、文章に対する意識というものが多少ある。存在してしまう。少なくとも無学な『絵』や『音楽』なんかよりはよっぽど。今まで自分の文章が好きだと散々書いてきたけど、それは技巧的な部分を認めてるわけではなく、そこははっきりと拙い。

 

・そもそも、文章とは『伝える』ためのものだ。書き手はなにかを伝えようと書き、読み手はそれを受け取ろうと読む。そこには努力や工夫が存在する。だが、自分のために書き、自分で読むという行為は、その努力が最小限で済む。当然のお話。……読みやすい文章とは、書き手によって伝えるための努力と工夫が十全になされ、読み手の最小限の努力でもっても『伝わる』文章だろう。だから、自分しか読まない前提での「自分の文章が好き」なんて言葉は、至極当たり前の、言うまでもないようなことだ。

 

・自虐的になっている思考をフラットに引き戻そうとすると、途端「そうは言っても私にとって読みやすいって事実は変わんないしな」「そもそもいくら自分の文章でも悪文かどうかくらいはわかるって」なんて自賛寄りの考えが浮かんでくる。前者はともかく、後者は「そんなことない」の一言だが。

 

・論理飛躍、矛盾、事実誤認、細かいところで言えば誤字脱字や言葉選び、句読点の頻度なんかもそうだ。文章を読むとき、引っ掛かりを覚え『伝える』の妨げとなる要素というのは大量にある。だが、そもそも既に伝わっているのならば、そもそも引っ掛かりを覚えることはないだろう。キーワードレベルで拾えば十分に理解が可能で、後は自分の好きなリズムで読めば、読み飛ばせばいい。だから自分の文章が悪文かなんて、そのつもりで読まないとわかりっこない。

 

・ダラダラと文章について書いてるが、こうやって恥ずかしげもなく書けるのが半可通ならでは、『恥ずかしげもなく』なんて付けたがるのも半可通ならではって感じだ。

 

・思わず読み飛ばしたくなるくらいに好きな文章に出会ったときは、数日の間日記を書く手も鈍くなるし、半可通なりにこういうことを書きたくなる。そろそろ抜けそうだけど、昨日も今日も重たい気分で書いている。