・急に暑くなった気がする。気のせい? 7月に入ったことを意識しすぎ? ほぼ間違いなくそうなんだけども、それを自覚したところでなにも変わらない。自分の単純さと難しさにちょっと辟易するくらいだ。
・作品から読者の人格だの過去だのを類推するアレはとことん嫌いだけども、作品を楽しむ上でその人の過去がなんの影響ももたらさないかって、そんなこともないと思う。だけど、共感だったり渇望だったり、同じ作品・同じ作風でも人によって過去からもたらされるものが違うから、類推に意味はなく、その行為は不当なレッテル張りにしかならないというだけだ。
・過去が読み手にもたらす影響について、手っ取り早いから僕ヤバでいくんだけど、例えば昨日のりお先生がTwitterに投下した一枚絵。手の感触を再現しようとする様と、グチャグチャな感情から来る呻きに込められたコンテクストは大きく、逆にそれを読み解かなければこの絵を『楽しむ』ことは難しい。
ヴー pic.twitter.com/r2mYwdg2xd
— 桜井のりお@僕ヤバ③6/8ロ⑥発売中 (@lovely_pig328) 2020年7月1日
・そして『楽しむ』ことが出来た多くの人は、読み解くと同時に、そこに自らの過去の感情を同時に再現していると思う。否、過去の感情があるから『そう』読み解けたと書くべきか。感情の再現(見方によっては追体験)というのがイコールで『楽しむ』ことに繋がる。
・じゃあ、この絵を感情の再現という形で『楽しむ』ことが出来た人は、皆同じ感情を胸に抱いたということか? それは明確にNOだ。作者が込めたものは1つでも、読み取り方は読み手の数だけある。人にはそれぞれ人生があるから。私の読み取り、感じたことと、他の誰かの感じたことは絶対に違う。
・作中人物に感情移入してはいけないなんて話はない。しなければならない、もない。なにか教訓を得なければ…もないし、そもそも楽しむ必要だってない。物語をどう受けるか、なにを思うか、そのためになにをするかなんてのは読み手の自由だ。『だから』、作品から読み手のパーソナリティを決めつけるなんてマネは、いくらそれらしく見えようと、それは明確にズレている。
・テキトーな決めつけで全体に投げた嘲笑が、たまたま刺さってしまうことがある。気に病むことはない。あなたが狙われたわけではないから。ただ、勝手なグルーピングと雑な決めつけからなるそいつの行動自体が不当であることに変わりはない。蚊に刺されたとでも思って、うん、好きにすればいい。