せんくつにっき

思うこと、感想、とかとか

200930日記 思考と表明、不気味の谷

・水曜日終了。冬に向けて、職場では多少忙しくなりそうな気配がし始めた。いやじゃ、これ以上働きとうない……。やめてくれ……。

 

・もうすっかり秋だ。つい先週くらいまで暑い暑い言ってた気がするのだけど、今はもう朝と夕方は寒いくらいだ。気がつけば私が帰る時間でも辺りは暗くなるようになっているし。読書、食欲、スポーツの秋。コンプするには余暇が足りないなぁ……。何につけても仕事が邪魔だが、働かなければ金がない。

 

・思考と表明について。アクタージュ原作者の事件の時とかも思ってたのだけど、例えばある犯罪被害にあった人がいて、その人については被害にあった以外まったくなんの情報も持たないとして、それでもその人の気持ちを推し計ろうとするとき、私は、思考としての正解は「とても傷ついているのかもしれないし、案外傷ついてないかもしれない。前者の方が可能性は高いけど、究極的にはわからないね」だと思ってる。が、この思考をそのまま表明するのは間違っているだろう。そちらの正解は、大方「どれほど傷ついてるか、想像しきれません」だ。

 

・まあ、本質としてはどちらも言ってることはそんなに変わらないけど、やっぱり誰かに聞かせる以上、被害者という『可哀想』な立場に対する言及はそれなりに気を遣ったものにしなければならないという、至極当たり前の話。ここ単体ではまったく異論はないけども、このただの気遣い(およびそれをしなければならないという認識)がその先の思考にまで影響を及ぼすことについて、たまにもやっとすることがある。あまり具体例はあげたくないけど。

 

・例えば市民感情だったり、例えば可哀想ランキングの上位だったり、そういう弱者という強者に気を遣った前提条件で論理が組まれていたり結論が導かれてたりするのはあまり見たくないなと、要するにそういう話。

 

・『不気味の谷』は確か人を模するものに対して使われた言葉だったけど、それは人間が人間の造形に一定のこだわりを持つからだと思っていて、同様にある程度のこだわりを持つ対象であれば、例えば動物や概念相手でも同じような感想を抱くのではと思っている。で、私が論理を遵守するということに(稚拙ながらも)こだわりみたいなものを持っているから、だから感情がそれとわからないように入れ込まれた論理もどきに対していい感情を抱かないのかなと。