せんくつにっき

思うこと、感想、とかとか

200903日記 感情に理屈を

・積みネタ消化月間とか言う日記を書いときながら、それから二日間は積みネタ消化してない件。しょうがない、ネタが普通にある時はそっち使うよ。ということで木曜日終了。明日一日で今週も終わりなので、張り切らずにいきましょう。

 

・昨今の表現規制問題で、規制反対派が「嫌悪感情に理屈を無理やり付与し、正当性を謳うな、ましてそれを錦の御旗にして規制運動など」と言ってるのをよく見る。ラブドール小児性愛に嫌悪や忌避感を抱くのは(内心の自由として)これはもうしょうがないとして、しかしその感情を正当化させるために表現の悪影響やら社会的責任やら男女不平等やらの理屈を捏ねたり、それを根拠にして規制を訴えるのは違うだろうと、そういうことだと理解している。全くもってごもっともで、意見に対しては大賛成だ。だから表現規制云々の話はこれ以上続けない。書きたいのは、「感情に理屈を付けるな」とだけ抜き出した場合、それは別にいいよねって話だ。

 

・なんでこんなこと書いてるかって、まさにそういう「感情に理屈を付けるのは良くないよね」って言ってる人を見かけたからで、これに関しては肯けなかったからだ。私が感情に理屈を付ける派の人間だからというのもある。『これ』に対しては『こういう』ことで好きになってるのかな、あるいは嫌いなのかな、と。

 

・『べき』とは言わない。感情に理屈を付ける『べき』とは。生きていくなかで得られる情報のうち意識できるものはたぶん限られてて、さらに自覚している感性がどこまで信用できるものなのかも怪しい。無理矢理理由を考え出したところで、てんで的外れな分析になってる可能性だってある。

 

・だけど、だからと言って『なんとなく、理由はないけど嫌い』みたいな状況は嫌なのだ。……この『嫌』は私の中の賢明で紳士ぶろうとする部分が働いての『嫌』である。要するに、人にされて嫌なことは他人にしてはいけません、ということ。理由もなく嫌われるのは私自身が嫌なのだ。ちなみにこの場合の『嫌』は、と続けようと思ったけどやめた。

 

・結局良くないのは、感情に対し常に『自分が正しい』ことになる理屈をつけることだ。もちろん、嫌悪感に正当性がないと気づいた時は苦しくて(良く知っている)、そこから目を逸らすのはまだしょうがないけども、理屈をねじ曲げてまで『正しい』ということにするのは歪だと言わざるを得ない。ましてそれが常態化するのは。