せんくつにっき

思うこと、感想、とかとか

200824日記 映画に透明な傑作は生まれない

・月曜日、終了。今週は久々に平日5日間をフルで戦い抜かねばならぬ週なので、景気づけと快気祝いとを兼ねて昨日から晩飯としてすき焼きに登板してもらっている。牛肉およそ700g。水曜日までは戦える。

 

・月曜日なのでジャンプ。真っ先のこれの話するのもあれなんだけど、タパゴラ。なんかいっぱい時間を費やして傑作を作るみたいなことしてるんだけど、いよいよこの漫画において編集って役割に存在意義がないんだなって思った。ま、別に編集じゃなくてもいいよ。他人の目が一切入らないままに時間だけ費やされた作品、どう考えても自分に向けて書かれた漫画でしかあり得なくないか。

 

・時間をかければかけるほど……ってとこも、ちょっともにょるな。創作クラスタでもないのに創作論綴るのも嫌なんだけど。『時間かけて良くなる部分』って頭打ちになる印象ないですか。さらにその上限に近づくほど時間対効果も薄くなるというか。仕事してても良く思うことだ。

 

・そもそもの話、作中で究極とされてる『透明な傑作』って概念も、それ漫画でやるのが最適解なの?って気がしてる。どうしても絵柄って部分で個性出るんだからさ、それが出ない小説とかの方が適してない? アイノイツキはどうしても漫画でやりたいのはわかるけどさ。

 

・少女漫画を嗜む友人がいて、咲坂伊緒?って人の作品が好きだそうだ。アオハライドとかは少女漫画を読まない私でもタイトルくらいは聞いたことがある。近々その作者の描いた『思い、思われ、ふり、ふられ』が実写映画化するということで、友人に「見るの?」と尋ねたところ、はっきり「見ない」と回答がきた。アオハライドの実写映画も見てないらしい。理由は自分でもはっきりしてないらしいが、なんとなく私には理由がわかる気がする。ちなみに友人は普通に映画を見る人種です。私とは大違い。

 

・その理由はおそらくタパゴラの『透明な傑作』論にも通ずるところがある。『透明な傑作』論というのはつまり、個性とは人を惹きつけると同時にそれを楽しめない人間も同時に産むことであり、個性のある漫画では全人類を楽しませることができない。全人類を楽しませることのできる究極の漫画とは、つまり個性を徹底的に廃してかつ面白い『透明な傑作』だ。という考え。『面白い漫画』のイデアってことなのだろう。

 

・『透明な傑作』の作成にあたり必要なのは『個性の排除』とのことだ。ここで個人的に思ったのが、普通込められている『個性』の数は作品媒体(映画、漫画、小説、アニメ)ごとに差があって、多ければ多いほどその媒体で『透明な傑作』を作るのは難しいよな、という話。(たぶん)1番多いのが映画で、次点でアニメ、そして漫画、小説と続く。友人が好きな原作であろうと実写映画を忌避する理由は、つまり漫画→映画と媒体が変わる段階で否応なく追加される個性に期待をしていないからだ。

 

・「青春ラブストーリーの実写映画なんて、どうせ作品性ではなく話題性のために、演技力もクソもない若手女優だの俳優がキャスティングされるんだろ」といった偏見。実在の人間が演じるという部分で否応なく発生する『個性』を廃することはたぶんできなくて、だから映画には透明な傑作は生まれない。