せんくつにっき

思うこと、感想、とかとか

200718日記 排せば主張

・土曜日終了。ある程度は掃除ができたので今日は満点。掃除を定期的にするだけで人間性が高まった気がするのだから、そもそもの人間性の低さが窺い知れる。

 

・そこそこの有名人が自殺しちゃったらしい。テレビを見ない私でも名前を聞けば顔が浮かぶくらいの人物で、かつまだ若い身空での自殺というのもあり、久しぶりに有名人の死に驚いた。言い方が悪すぎるけど、若手有名俳優の自殺、絶妙に心を揺すってくる。

 

・結構長いことテレビだの映画だのに出演している印象があるから、俳優としての地位は確立されてたと思う。はて、『なのに自殺をした』と『だから自殺をした』のどちらなのだろう。住む世界が違いすぎて想像することも難しい。知ったところでなんの意味もないが。

 

・話を変えて。「正義の反対は、また別の正義だ」みたいな言葉があるけど、あれを口に出す人間には少なくとも正義はないよな、とか考えてる。反対ってことは対立するってことで、例えば『カレーは美味しい』という正義に反対するのは『カレーは美味しくない』や『カレーは不味い』という正義なのだけど、どちらの派閥も自らを正義とする以上相手側を『正義』と認定してしまうことなど出来ないはずだ。だから、このカレー論争に対して「正義の反対はまた別の正義だよ」と言い放てるのは、カレーに対する正義を何も持っていない、どちらの意見にも汲みさない人間だけだ。

 

・一連の言及における『正義』の意味合いは、この言葉が一般に使われる時の『正義』の定義とは違う。だからまあ、書いたはいいが意味のある文にはなってない。一般的に「正義の反対は〜」を語る時、正義という言葉は『主張』とかその辺りまで意味が広げられて(あるいは狭められて)、『正しさ』という要素は排除される。これは『正義』から客観性を排した使い方だ。正義に反対する時の『悪』もまた客観性を排したら『主張』しか残らないため、結局は正義も悪も変わらない。だから「正義の反対は、また別の正義だ」が成り立つ。

 

・成り立つのだが、ここまで紐解くと言葉から力が失われる。だってこうなると「主張の反対は、また別の主張だ」でも言葉そのものの意味は変わらず、こんな意見は「何を当たり前のことを」で一蹴される。その気づきを与えるのがこの言葉の持つ力だから、気づかれれば力を失うのは当然といえば当然だが。

 

・正義を『正しいもの』として認識していると「正義の反対は〜」は意味の通じない言葉で、だからそのとき人は自分の使う言葉の意味を、(俗な言い方になるけども)『正義』の意味を見つめ直すことになる。繰り返しだが、これはそのための言葉だ。

 

・……そこまで考えた上で、個人的な意見として、あまり好きな言葉ではない。伝えたいのは「正しさなんてない」ってことなのだろうが、それに意義があるとは思えない。何かが生まれるとも思えない。やっぱり、当事者性のない第三者の混ぜっ返しにしか感じない。