せんくつにっき

思うこと、感想、とかとか

200323日記 正義心と正義

・こんがり焼けたワニもそろそろ冷めてきた頃合いだろうか。大衆につられて動く批判の声はまだ理解できるけど、この段に至ってもまだ根強く声を上げる方々の心理は私にはどうにも分からない。社会はなんだかんだ賢く、更に賢い方へ向かってるんじゃないのかと思ってるから、「彼らは今のところは例外なんだな」なんて呟いて思考から弾き出すのだが、また似たようなことが起こるたびに「まだいるのか」と新鮮な驚きが胸に生まれる。

 

・1ヶ月も経ってないだろうか。Twitterの一部で発生した、とあるネットミームの起源主張の件。遥か遠い昔の匿名掲示板への書き込みが起源のため、当然確たる証拠などはないのだけども、それでもどちらが嘘をついてそうなのか、大勢が判断できる結末にはなった。嘘をついた側は当然のように糾弾をされていたが、それこそひと段落ついてもなおその声を止めない人たちがいた。あの件において、あの人たちは別に何者でもなかったはずなのに、何でそんなに上段から石を投げつけてるのか理解が出来ない。

 

・こういう時、『正義がそうさせてしまう』と、正義に対して批判的なトーンでもって語ることがある。肯きたいけども、正義の定義がここではよく分からない。上記のような(憂さ晴らしのようにも見える、意味があると思えない)糾弾は、絶対に正義ではないだろう。だからこそ、語る人は批判的なトーンなのだ。いや、正義で動いてるのに、正義を為していないとは。

 

・心情としての正義、行動としての正義、評価としての正義、これらをごっちゃにするから分からない。個人的には、心情としての正義は『正義心』と呼ぶべきで、行動としての正義はそもそも正義の名を冠すべきでなく、評価としての正義はそのまま正義でいい、とそう思っている。

 

・それを踏まえると、『正義心がそうさせてしまう』と言い換えた方が優しいだろう。正義という言葉に、人を悪い行動に誘うなんて意味が相応しいとは思えない。コロナの検査キットを広く配布させようという試みなんかは、(本心は知らないが)正義心を持って行動したが、正義は得られなかったと言える。

 

・正義心と猜疑心、音が似てるな。昔、『結構』という言葉を聞くと『烏骨鶏』が頭に浮かぶな、なんて話を友人にしたら、ちょっと何言ってるか分からないと切り捨てられた。え?分かるだろ。