せんくつにっき

思うこと、感想、とかとか

200606日記 反転、ホタテ

・反転アンチってのが存在しているらしい。もともとファンだったのに、なんらかの理由により対象への好意が反転し、アンチになってしまった人のことだ。個人的に、嫌われる理由は対象にあるのだと自分の正当性を叫んでるみたいで好きではないのだけど、目に入るアンチの多くは反転アンチを自称しており、中にはそういう人がいるのは間違いないのだろう。

 

・好意が反転するほどの体験、だいたいは当人にとって大きな出来事であるはずだ。その体験が徐々に徐々に好きな気持ちが目減りするようことだったら、普通の人は値が0に近づいた時点で、つまり興味がなくなった時点で対象から離れるだろうから。対象がストレスの元になりそうなのに構わず触れにいくというのは、一般的に愚か者で、愚か者はそう世間にいないはず……と思ってる。少なくとも『普通』と評されるほどには。理性的に考えることができずとも、興味ないものに対して興味のないなりの動きを取るのは、本能のレイヤで処理できるはずだ。

 

・というか、「あんなに好きだったから」で固執するのは理性の働きであるように思う。興味がなくなった、あるいは薄っすらと嫌いになった段階でも「また好きになれるはずだ」「まだ楽しめるはずだ」と自分に言い聞かせて、だけど対象はお前個人の好悪程度のみではそうそうあり方を変えないから、そしてお前自身も『好きになろうとする努力』ではなく『今まで通りであろうとする努力』しかしないから、そのまま減点は積み重なり続け、最後にはどこに出しても恥ずかしいアンチになってしまうのだろ。

 

・何かを嫌いになることを愚かなことだと言ってるわけではもちろんない。『好き』がある以上『嫌い』も否応なく存在する。それは、理由もわからないが生理的に無理だったり、しっかりした理由のうえでなるべくして嫌いになることもある。これはもうしょうがない話で、性犯罪の被害にあった人間が性犯罪者や嫌悪したり、たまたまその加害者と共通の属性を持つ人間を避けてしまうのは、あまり責められることではない。ただ、嫌いの共感を押し付けたりするのはちょっと次元の違う話で、……性犯罪を引き合いに出したのは失敗だった。途端に言葉が重たくなる。

 

・まあいいや。最初に話を戻すと、私個人はその『反転アンチ』になったことはない。そもそもアンチ活動をしたことがないし。攻撃行動の有無で『ただ嫌い』か『アンチ』かを分けるのは言葉の定義の問題だけど、基本的には『ただ嫌い』なだけだ。好きだったものが嫌いになった体験、何かあるかなと思い返せば一つだけあった。生のホタテだ。生のホタテの反転アンチ。いや、アンチじゃないけどね。