せんくつにっき

思うこと、感想、とかとか

190924日記 中庸の是非

・ぐあぁーー。もうそうっとう疲れた。ここ何日か、書き出しが『疲れた』ばっかな気がする。本当のことだし、いいじゃないですか。

 

・仕事の疲れではなく遊びの疲れなので、あまりウダウダ言ってられない。さっき家に帰り着いたのだ。そうです、有給を取ってました。ちなみに、旅行の詳細だとかは日記に書かない。そういうのではないので。

 

・過去三日間ほど、嫌いなもの→好きなもの→嫌いなものと、好き嫌いのみで日記を書いてた。旅行している最中に、そのこと以外で書こうとすると、どうしても話題の幅が狭くなるな。旅行の中で感じたことやその切っ掛けとなったことについては、旅行の時のこととは書かずに、先の日記のネタに置いておく。

 

厨二病高二病を引きずっているのだろうか、『偏っている自分』をダサいと感じる内面が確かにあって、全部ではないけどもたまに言動にそれが出る。『偏っている』というのはわりといろんなものに対してで、よく右だ左だ言われる政治の話や、その時問題になっている出来事に対する意見のスタンス、上記の好き嫌いについてもそうだ。まあ、好き嫌いはわりとはっきり嫌いだ好きだを言っているつもりなので、これに関しては中庸を気取っていないと言える。

 

・スタンス的なところで中庸を気取るのは、これはいいことなのだろうか。自分の意見がはっきりしていないってことになるんじゃないか?そうと言われると弱いし、そう言われる気がする。少なくとも、議論を戦わせてる陣営からしたら、中庸を気取っている人の意見は上からものを言っているように取られるんじゃないだろうか。

 

・もちろん、誰かから批判される=それがダメってわけではない。そう思っているが、本当にダメでないかどうかも、言葉や議論を尽くさないと本当には判断できない。プロセスを踏むことは重要だ。

 

・中庸を気取るのは何が良くないか。議論の渦中にいないことで、当事者意識に欠けることがある。それはつまり、意見の発出に必要な事実関係の確認、把握が疎かになることに通じる。また、そもそも議論をするつもりがないからこそ中庸を気取るということもある。反対に、何が良いか。↑では当事者意識の欠如に対するデメリットを書いたが、欠如しているからこその視点で意見を述べることができるとも言える。案外渦中の人間は目が見えなくなっていることが多い。

 

・そもそも。激しく二極化、三極化した問題に、それらの意見の良いとこや悪いとこを踏まえたうえでの意見を放り込まれたら、元からいた意見はいい気がしないだろう。言ってしまえば新しい陣営が増えただけなのに、『中庸、どっちつかず』というところに放り込んで(まれて)しまうのは、元々渦中にいた側の反応だ。

 

・つまり勝手にレッテルを貼られているわけで、そういう行動を見たからこそ、自分は中葉が良くないんじゃないかと思い始めたのではないか。そう考えていくと、別にそのもの自体は悪いことではない気がする。ただ、自分はそこまで熱量を持って意見を持ち、戦わせることが少なく、またできればしたくないと思っている。そのくせ、何か意見を言いたいから、という理由で中庸を選ぶのであれば、それは批判されてしかるべきだろう。というか、そういうのを中庸と呼ぶべきではないのかもしれない。ただのいっちょ噛みだ。