せんくつにっき

思うこと、感想、とかとか

210301日記 なんなく読め……ない

・3月突入。あーあ。今月は今月でいろいろとやることが山積みなので、たぶん体感一週間もすればもう4月になってる気がする。やだなぁ……。想像できる作業量ですでに膨大なのに、陰に隠れているであろうあれこれを考えただけで憂鬱になる。どうでもいいけど「憂鬱」と「鬱」って、「鬱」の方が文字数少ないのに症状は重いよね。

 

・パッと見ただけで真贋だの正否だのを判断するのは、何に置いても難しい話だ。もちろん絶対に無理とは言わないが、基準を自らの思想信条に置いてすら、難しいことには変わりはない。この記事に書かれている内容は、思想は、私の考えと比べて「どう」なのか。結論ありきの飛躍はないか、ふさわしくない言葉はないか。あるいは、そこにあるのは受け入れがたい内容だが、その受け入れがたさから私は斜めに読んでいないか、重箱の隅を突いていないか、自分に都合のいい読み方をしてはいないのか。物事は理解せねばならないし、文章は読まなくてはならない。どちらも正しく行うためには、能力と努力、なにより時間が必要になる。

 

・日本語であれば、母国語であればなんなく読める……なんてのは、たいていの場合うぬぼれだ。ひらがなが読めれば単語が読め、単語が読めれば文節が読め、文節が読めれば文章が読めるなんて、そんな簡単な話ではない。機械を使って遠くのところに文章を送るという、とても高度なことをしているのに、しかし帰ってきた文章をなにひとつ「読めていない」実例は、インターネット上だけでうんざりするほど漂っている。もちろんそれらは同時に「書けていない」実例であることも多い。よく考え、そして練らなければ、正しく読むことも書くこともできない。

 

・文章は「読める」「書ける」がゴール地点だが、しかし文章自体がツールであることも忘れてはならない。厳密な運用が求められる論文や商業記事ではいざ知らず、日常的な会話ややり取りで相手方に「正しく書く」を求めるのは、場合によっては窮屈になる。あえて崩すことによってむしろコミュニケーションが円滑になる文化は存在するのだ。文化というべきか。広く見たら不合理でも、その局所ではそれをしないと合理的でなく、正しく読んでもらえないという文化。