せんくつにっき

思うこと、感想、とかとか

210219日記 線を引いた場所

・いえーい金曜日終了。頑張った私よくやった。これが定年まで続くと思うと気がおかしくなりそうだがよくやった。こうやって自分を褒めないとどうしようもなくなる未来はすぐそこに。

 

・おかしくなりそうとおかしくなったの間にはとても大きな距離が横たわっていて、まだ私はあちら側ではない。はずだ。おかしくなったとは呼ぶけれど残念なことに多くは自覚のない狂気であるがゆえ、こちら側にいる人しかその狂気を狂気と認識できない。おかしくなってからでは遅く、そうなるくらいなら自覚のある狂気の方がマシであるように思うが、残念なことにそれはあちら側からも狂人扱いされるのだ。

 

・なんのこっちゃですね。別の話をしよう。これは差別じゃない、区別だ……みたいな言い尽くされた文句があり、言い尽くされたがゆえに陳腐な詭弁扱いをされるけど、しかし事実として差別と区別はグラデーションであり、どこに線を引くかで決まるだけだ。ここまでが区別と思えば区別だし、あちらからを差別と呼べば差別になる。線を引いた場所が崖っぷちのあちらとこちらだ。気持ち一つで足元がなくなる。

 

・どちらも多くは必要性の名の下に行われ、妥当だと承認されれば区別、否であれば差別、そんな分け方が一般的だと思う。承認者が多いからいったいなにが差別なのかという論争が生まれるのだ。

 

・例えば、今日までほとんどの場合、身体に障害のない人が参加するスポーツの大会は男性と女性で分けられていた。性別によって身体能力が大きく違うのだから当然で、これが妥当だと承認されている。女性が男性の、あるいは男性が女性の大会に参加する機会がないことは、これは明確な差別だと叫ぶ人は、いたとしてもごく少数派だろう。そして、最近(私の知る限り)になってTS女性(身体は男性)の女性大会出場が問題になってるが、これをどうするかが現在起こっている論争だ。身体が男性なのだから性自認に関係なく男性大会に出場すべきなのか、性自認に従って女性大会に出場すべきか。あるいはTS専用の大会を特別に作るか。どれが区別でどれなら差別にならないか。

 

・異修羅まだ読めてないなそういえば。買ってもないけど。そういえば本を「とりあえず買っとく」みたいなこと、してない気がする。お金を払うときはすぐにでも読みたいときで、すぐにでも読みたいならすぐに読むのだ。すぐに読みたいけど忙しい、みたいなときは、そもそもそこまで読みたい気持ちが強くならない。下品な例えだが、忙しくていけないときはトイレをある程度我慢できるが、そこまででもないのにトイレについてすぐにでもできるってなった瞬間にMAX近くまでしたくなる……みたいな。なんか違うか?