せんくつにっき

思うこと、感想、とかとか

210522 なんなんすかねこれ

 

 男は悩んでいた。

 立っているのは社員食堂入口の、券売機のすぐ横、メニューが書かれた看板の前である。今日の日替わり定食を確認する人の、そして券を買う人の邪魔にならないよう、券売機とは逆サイドのやや斜め前で悩んでいた。

 男は口内炎を患っていた。この砂漠のような現代社会のストレスにやられて……ではない。男はそれなりにぬくぬく日々を過ごせている。ここ最近の大きな悩みと言えば、少しずつ出てきた下腹部と、それに反比例するかのように落ちてきた体力ぐらいなのだ。社会を砂漠だなんだと嘆く資格はあんまりない。室内用のフィットネスバイクの購入を検討してから、はや半年が過ぎようとしている。

 外傷性の口内炎だ。たまの楽しみにと訪れた二郎系ラーメン店で、大量のもやしを咀嚼しているとき、勢いよく舌を咬んだことが直接的な原因である。100%自業自得。血が出るほどの傷は、その夜には痛みと熱と腫れに変わっていて、どれも引くことなく3日目を迎えた。

 無意識に口内炎のある方の頬をさする男を通り過ぎ、また一人、食券を購入していった。B定食。

 今日の日替わり。A定食、肉じゃが。B定食、油淋鶏。副菜は共通で卵焼きとほうれん草のおひたし、ご飯は大盛りプラス50円――。

 いつもの男の選択であれば、なんの迷いもなくB定食の油淋鶏を頼んでいたところだ。なにせ男は鶏肉が大の好物で、ひと月以上の間毎日鶏肉を食べていたこともある。無意識のうちに、だ。ついでに言うと肉じゃがはそこまで好きではない。肉と玉ねぎとジャガイモがあるのならカレーでいいじゃない……というのが男の考えで、つまるところ子供舌なのだ。

 だが――そんな男の子供舌は、絶賛負傷中である。未だ何もせずとも鈍い痛みがあり、水を含めば痺れるように、炎症部位に物が当たれば刺すように痛みが走る。いつものように食事を楽しむことなど、到底望むべくもない。本来であれば食堂などに訪れず、患部を刺激せぬよう、ウィダーインゼリーでも食べているべきなのだ。

 そんなことはわかったうえで、しかし、それでも、男はA定食かB定食かで悩んでいた。踵を返してコンビニに向かい、ゼリーを買う選択肢はない。男は食に貪欲であった。熱で食欲がないのならいざ知らず、美味しいものを食べたいという欲求がしっかりある以上、それを無視する気は男にはなかった。

 油淋鶏は、さすがに刺激が強いんじゃないか――。順当にいけばB定食を注文するはずの男の心理は、簡単に言えばそんなところだ。揚げた鶏肉に、酢醤油ベースのタレ。ザクザクした衣は咀嚼ごとに硬度を保ったまま細かい破片に変わり、気を付けていても口内炎を攻撃する。傷口に酢なんか言うまでもなく劇物だ。それに比べて、肉じゃがのなんと優しいことよ。一口の大きさに気を付けてさえいれば、少なくとも油淋鶏ほどは痛まない。はずだ。――バカバカしいが、男はいたって真剣であった。

 口内炎に気を遣えば、A定食。好みに従えば、B定食。もたもたしているとどちらかが売切れになってしまい、選択の余地がなくなってしまう。タイムリミットの存在を思い出した男は、頬から手を放し、とうとう券売機の前に立つ。選択は――B定食。油淋鶏だ。男は好みに従った。

 そもそもだ。食堂のおばちゃんから定食を受け取りながら、男は考える。そもそも、口内炎に気を遣うんであれば、食堂なんかに来ること自体が間違いなのだ。痛みを無視し、昼食を楽しむことを選んだのだから、ここで好みでない肉じゃがを選択するのは、中途半端な逃げだ。攻めるなら攻める、逃げるなら逃げる。麻雀にしたってFPSにしたって、そして人生にしたってそう。中途半端な行動が、一番悪い結果をもたらすのだ。

 そんなことはわかっていて、じゃあなんで悩んでたかって、好みのメニューが思いのほか口内炎に悪そうな油淋鶏がだったものだから、日和ってしまっただけのこと。しかし、男は怯えに勝った。貫くべきを貫いたぞと、男は食べる前から満足げだった。悩んでいた時間はつまり、油淋鶏を食べるための覚悟を養う時間だったのだ。

 いただきます――そう呟いて、切り分けられた肉の一つをかじる。

 嚙んだ瞬間口内に溢れる脂と酢醤油。揚げたてなのだろう、熱と形で無遠慮に存在感を放つ衣。それぞれがそれぞれで味蕾と口内炎を刺激し、予想通りの幸福と危惧していた以上の痛みが男を襲う。男は鼻から息を漏らし、そのまま目を瞑りながらこう思うのだった。

 ――やめときゃよかった。