せんくつにっき

思うこと、感想、とかとか

220411日記 下を向いて

・月曜日終了。おぉう、今度は一週間以上ぶりの日記だ。開きまくったなぁおい。理由はざっとふたつあり、単純に忙しくて体力気力共に無かったのと、日記を書かないという日常に慣れ切ったせいで前回の日記で書いたみたいな「手持無沙汰感」が消え去ったせいである。いやほんと、「やらなくなる」方向への慣れって凄まじく早いな。3年近く築いた日課が一週間とちょっとで脳と身体から消え去ったぞ。あるいは、その3年の終盤の方でもわりと軽率に日記書くの忘れそうになってたし、もともと定着してなかったという説もある。どっちにせよダメだなコイツ。

 

・最近改めて思ったのだけど、私は下を向いてる方が性に合う。合い過ぎる。皮肉や自虐のつもりは皆無で、ニュアンスとしては納得……あるいは「ようやく認められた」というものだ。一般的なネガティブな状況を是としているので、どうしても皮肉に読めてしまうけれど。

 

・この数年間、どこか意図して前を向いて歩くようにしていて、それはまぁ生活にいろいろあったりなかったりが理由なのだけど、それは置いといて。この日記習慣と同じく、「意識」しているということはつまり無意識のうちだと「そう」なれないということであり、実際、どうしても首を落として足元を見て歩いてしまう瞬間はあった。とてもあった。私はその度に、自分の目線はフラットが斜め下にあるという事実を自ずから突きつけられる度に、「これ」こそが習慣によって曲げられた結果であり、私の基本は正面にあると、今は矯正の段階だと、そう頷いては重い首を上げてきたのだけど、どうももうムリである。……ムリ? もう限界? 通らない? 諦めた? どう言い方を変えても挫折の感が否めないけど、私の感覚としては上に書いてあるように「ようやく認められた」というものである。下を向いてる自分が、その瞬間が、どうしようもなく自分にとって自然で、楽で、しっくり来てしまう事実に、私はもうほとほと参った。

 

・生活、記憶、経験によって変わらない「自分」なんてものはなくて、あるとすれば遺伝子に刻まれた時限爆弾や肉体スペックの初期値成長度くらいだから、たぶんずっと続けていれば目線は前を向いていたのかもしれないけど、それは今までより強く意識してすらずっと先のことになることが容易に想像できて、だからもう、「これ」が自分なのだ。砂利を草を蟻を、通行人の靴を、たまに花を見ながら歩くのが、それが心地いいのが自分なのだ。