せんくつにっき

思うこと、感想、とかとか

210412日記 思い出したこと

・月曜日終了。あ、ヤバい。今すっげぇしんどい。今すぐ日記を切り上げて風呂入りたい。しかるのち、睡魔次第で布団にもぐりたい。ここ最近は昼休みに寝れてないし、昨晩は昼寝のせいで3時くらいまで寝れなかったしで、たぶん速やかに眠れる。ダメなんだなやっぱ昼間に寝るのは。3時までなにしてたかって布団に入って寝返り打ってただけなので、結果的に昼間に寝てた時間だけ活動時間が純減してるじゃない。

 

・大して残業もしていないのに、なしてこげなに疲れてるんだべかねぇ。新年度に入ったことによる「こんな生活がこの先続くと思うと、もうゾッとするよ!」みたいな話なんかなぁ。体力消費は気の持ちようで激しくなるので。消費が抑えられることはないが。

 

・前述のとおり昨晩はさっぱり眠れなかったので、いつものごとく死について考えてしまっていたのだけど(だから寝れない)、ふと、この私の軽度のタナトフォビアについて、そのきっかけのようなものを思い出した。本当にそうなのかはわからないけど、それが私の記憶のなかでもっとも古い、死に恐怖した記憶のはずだ。それは親戚の死や自らの臨死ではなく、ほんとうに些細な体験で、なにあろう漫画を読んだというだけのことだ。初めて読んだ週刊少年ジャンプの、その時でも名前だけは知っていた有名作品。タイトルは『DEATH NOTE』。その最終盤も最終盤の、夜神月が死を迎えるその一話だ。

 

デスノートを使った人間は、天国にも地獄にもいけない。使用者を怖がらせるための、まさに「ただ嘘ではないだけ」の文句だ。本当のところはというと、天国も地獄も存在しないのだから、デスノートを使っていようがいまいが死の結末は変わらない。死んだら意識はそこで終わりで、ただの「無」になる。「無」が人間の終着点だと。それがDEATH NOTE作中で示された真実で、そしておそらくは現実世界でもそうなのだろう。そんなことは漫画を読まなくても大体の人間は知っていることだ。

 

・誰でも死ぬことは怖いし、意識が永遠の無になることも怖い。はずだ。音と光と熱と風と、とかく刺激に満ちている世界にいては、それらをなにも感じられない状態になることを恐怖するのは当然の話だろう。じゃあなぜ多くの人は、逃れられない運命を知りながら発狂していないのか。一個人の私に真実がわかるわけもないのだけど、私はこうだろうと思ってる。「意識がなくなるんだから、辛いも苦しいもないでしょう」と。

 

・まったくもってそのとおり。死ぬという運命は避けられないけど、そのあとの苦しみなんてのは意識がないのだから味わいようがないと、そういう話だ。感じられないものに怖がってもしょうがない。感じたこともないのだから怖がってもしょうがない。だけど、私は怖いのだ。感じたこともないのに?……否、あるのだ。臨死ではない。繰り返すけど、私はただ漫画を読んだだけだ。呼んだことがある人はわかるだろう。前述のその夜神月が死んだ一話、まさに命を落としたその次のページは、何も書いていない真っ黒な見開きで、それはまさに死の無を表したものだった。本来は死ぬまで、いや死んでも感じることのできない「無」だった。

 

・トラウマというわけではない。明確な定義がわからないので断言はできないけど、作品自体は幾度か単行本で読み返してはいるし、そのページを読んでもこれといった感慨が浮かんだ覚えもない。ただ、おそらく私の脳裏にこびりつき、死の恐怖を喚起しているのは、あの暗い見開きだと思う。