せんくつにっき

思うこと、感想、とかとか

210330日記 他人事意識の徹底

・火曜日終了。今日は珍しく(ほんとうに珍しく)書き始めの段階から日記のタイトルが決まっている、つまり「これを書こう」が決まってる日で、なんと(覚えてる限りで)2回目だ。600日以上続けといて、2回目。なんと無計画な日記書きなんでしょうね。しかもその最初の1回は(たしか)「いつも最後に書いた内容からタイトルを決めてるから、今日は最初に適当にタイトルを決めて、それに沿った内容にしよう」みたいな試みだったので、本質的には今日が初めてかもしれない。まあいいや。くだらない前置きが長くなりすぎですね。

 

・ここ数日のことなのだけど、わりと私の気持ちをざわつかせるような出来事が立て続けに数件発生している。いろいろとそれどころではまったくないのだけど、しかしどうしても過程や顛末が気になり、わざわざ様子を見に行ってしまうような出来事だ。

 

・『わざわざ様子を見に行ってしまう』と書いてあることから、また日記のタイトルからもわかるだろうが、それらの出来事は本来完全に他人事で、それ以上でも以下でもない。最終的な結果(そんなものは物語の中にしかないけども)がどうなろうが私の人生生活にはなんの支障もない事件で、もちろん社会にはそよ風程度の影響が出るかどうかも怪しいところだ。そんなとき、直接的に参加しないでも火元を遠巻きに見入るようなマネはまさに野次馬根性としか言いようがなく、それは私が好きでない類の性質である。関係がないはずの人間が無駄にハッスルする姿を、たびたび日記で批判しているように。

 

・もちろん、内心を内心のまま留め置くことと、それを表出することの間には大きな距離が横たわっている。殺したいほど憎むことと、実際に対象を殺すことが違うように。そこの違いを無いものと断じどちらも一緒なのだと喝破するようなマネは、それは単に悟ったような顔がしたいか、あるいは前者で踏みとどまってる人間が気に食わないかのどちらかだ。だから、一貫して見を貫いている私の姿勢を、少なくとも私が批判することはないし、今私が気になっているそれらの出来事についての見解などは、この日記ですら一片たりとも書くつもりはない。これは強く気にしているからこその自戒だ。

 

・だけど、私のこの野次馬根性の行先には、無関係なくせに声を挙げ火を広げる迷惑な野次馬がいるというのも事実ではある。その距離を詰めるつもりはないけども、しかし知らず知らずに近づいていないとなぜ私自身が言えるのか。だからやっぱり、日記で何度も書いているように、所詮他人事でしかなく、そんなことを気にしても意味はないのだと、その意識だけは常に持っておかなくてはならない。それくらいしてやっと、私はなにもしない外野で居続けているという自覚が持てる。なんだったら、その意識と裏腹に、結局は見を続けても構わない。そこのギャップに悩むのはどうせ私だけだから。