せんくつにっき

思うこと、感想、とかとか

201017日記 可哀想なんかじゃ

・休日とか残業のない平日、いつも18時半くらいには夕食を食べ終わってるのだが、今更ながら早すぎる気がする。実家の時は確か20時前後(もっと遅い時もざら)だったはずだけど、はていつからこんな習慣がついたのだろう。思い返すと、多分あれだ、この日記のせいだ。もっと言えば僕ヤバ。ツイヤバの更新は不定期ながらもだいたい19時ちょい更新が多いので、読んで即感想を書くことを考えればそこまでに夕食と日記を終わらせなければならず、日記におよそ30分程度かけているので必然夕食は18時半には終わってる必要がある。そうか、となるとこの1年くらいで身についた習慣なのか。思ったより短かった。

 

・『可哀想なんかじゃない』って言葉、たまに聞くじゃないですか。なにか誰かを哀れんでる人に対して、哀れまれてる対象を庇う……だとまたニュアンスが違うけど、まあそんな感じで投げられる言葉。あれどこまで使っていいんでしょうね。『これこれこういう理由でそいつは可哀想だ』という論を崩すための言葉で、そうなるとなんとなく論理的な言葉なのかなと思いきや、マックスの感情論だから見かけるたびにモヤモヤする。

 

・当人が幸せならそれでいいじゃないかって言われてもねぇ……納得しそうになるけど、一方で無限月詠は打破されるべき計画なわけで、どちらも正義の理論なのにおかしくないか。他人に大上段から「可哀想」なんて評価を投げつけるのが間違ってる? それはあるかも。「可哀想なんかじゃない」も他人からの評価だけど、まあそこはほら、他人の度合いが違うことが多いから。極論言えば親密だろうと疎遠だろうと他人は他人だが、そこで極論使う意味もないし。比較的わかってる人がわかってない人に指摘するのは間違ってないでしょう。真理知ってないと誰にもなにも教えられないなんてことはない。

 

・本当にわかってるのかって問題があるが。それは親密な他人だろうが当人だろうが一緒。例えば虐待や搾取などの理由でどう考えても『そこ』にいるべきではなくても、被害者たる当人は離れたがらない場合はある。共依存なんて言葉もよく聞くね。そういう時にまで『可哀想なんかじゃない』は明らかに状況をわかってないか、あるいはその時だけよければいいという近視眼野郎だ。

 

・一方的に片側が正しくないような極端な例出してもしょうがないか。年収◯百万は◯千万から哀れまれるけど、◯百万は◯百万の幸せがあるわけで、一方でその幸せのほぼ上位互換を◯千万は持っていて、その時に「可哀想なんかじゃない」は通用するかどうかってのがちょうどいい例じゃないか。1000文字超えたのでそれについてはもう書きませんが。