せんくつにっき

思うこと、感想、とかとか

200914日記 論理の槍と感情の盾

・鷹の爪触った手で鼻に触れてしまい、燃えるような痛みに耐えています。今。たまにパスタを作ったらこうだ。慣れないことはするもんじゃないですね。それにしても痛い。カプサイシン脂溶性で、牛乳で洗うと効果的らしいが、残念ながらそんなもんは我が家にないです。終わりだ終わり。ものの試しにオリーブオイルで擦ってみたが、あまり効果は感じられませんでした。

 

・ということで月曜日終了。せっかくの休みだけど大したことはしてないですね。いつものことだけども。大したことはしてないので、つまり日記に書くこともないということだ。何か一つネタがあったような気もするけど、また忘れてる。このポンコツめ。

 

・昨日の日記と内容的に地続きなお話。どこかの誰かがが炎上した時、叩く人はとりあえず『対象が叩かれるに至る論理的な理由』を持ってきて叩く。この時の『論理的な理由』は必ずしも真である必要はなく、とりあえず論理的っぽく見えているだけだ。春先のワニなんかもそうだった。ステマをした→ステマは許されないこと→だから叩く。ここだけ抜き出したら正当性があるようだけど、そもそものステマという部分にはなんの確証もない。ただ商品展開に電通が噛んでいたとか、それだけの事実から勝手にステルスマーケティングをしていると断定されただけだ。

 

・で。叩いてる人にたいし『論理的な理由』がおかしいのではないかと詰めた時、途端にそれを翻して『感情的な理由』を矢面に出す。同じくワニで言うと「ワニが死んだ余韻を台無しにさえたからだ」。当時よく聞いたね? これの効果的なのが、論理的にお話をしようとする人間であれば、感情的な問題に対しては「まぁそれはあなたの自由ですね」となってしまうのだ。

 

・だから、卑怯な人間は両方を場合によって使い分ける。論理的な叩きは大義を持てるから煽動に強く、一方で誤りは詰められる。感情的な叩きは大義に欠けるため煽動に不向きだが、あくまで個人の感情なので誤りによって口を塞がれることはない。論理的な(そう見える)叩きで煽動し物事を大きくして、誤りを詰められたら感情的理由でかわすというのがいっとう効果的な立ち回りだ。

 

・最近は最初っから混ぜてるのも見ますね。「これこれこう言う理由で非難するけど、結局は私のお気持ちでしかないからな」みたいなやつ。最近感想問題で山ほどみた。使い分けですらない。要するに詰められるのがイヤだから、最初っから感情の問題にして論理バトルを避けてるのだ。炎上やバトルの当事者になること自体を『負け』と捉える人が使う手で、個人的な感想ですが一番卑怯というかみっともないと思いますね。まあ高度な処世術ってことなんでしょうけど。